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写真:伊藤篤史(福島 La Union主人)


-「喫茶養生紀]は、”茶の湯はエチオピアのコーヒーセレモニーを導入したものだろう”という銀座[カフェ・ド・ランブル]故 関口一郎氏の仮説

を検証していく過程を記したものです-


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[珈琲と茶の湯(喫茶文化)の歴史 1(シルクロード グレートジャーニー)]


茶の湯とコーヒーセレモニーの関連性を写真を提供してくれたLa Union主人伊藤くんにたずねたことろ、シルクロードかグレートジャーニーともしかすると関係があるのではと教えてくれた経緯が前回。


①シルクロード

シルクロードとは、アジアとヨーロッパとを結ぶ東西交通路の総称のこと。

アジアとヨーロッパとは、有史以前から幾筋かの交通路で結ばれていた。

(一本の糸のような道ではなく、複雑な道であった)


②グレート ジャーニー

グレートジャーニーとは、五百万年前に東アフリカで誕生した人類が、アジア、北アメリカを経由して南アメリカの南端に到着するまでの旅のこと。

深田久弥,長沢和俊著(白水社 1968)[シルク・ロード:過去と現在]「シルクロードの黎明」にはこう記してある。

グレートジャーニーとも重なるため、長くなるが引用する。


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「いまから一万年ほど前から、地球はしだいに暖かになり、同時に乾燥化がはじまった。

それとともにいままで人類の食糧源になっていた草食大動物が、北方に逃れて絶滅の運命に見舞われた。

そこで人類は、こうした地球上の気候の変化にともなって、何か新しい適応をしなくてはならなくなった。

文化人類学者の泉靖一教授は、その例として次の三つの適応を指摘されている。


その一つは、北方に逃れる動物群を追って、アメリカ大陸に移動した人々である。彼らは新大陸が孤立すると、そこに新しい文化と文明を築いて言った。

第二には、北方の森林地帯への適応である。彼らは狩猟、漁撈(※1)の生活をいとなみ、やがて土器を作り農耕も行った。フランスから北方の森のなかに栄えたカンピーニ(※2)、マグレモーゼ(※3)などの諸文化が、その例とされている。

第三の適応は、地中海東岸からパルチスタンにわたる地域にみられ、ここでは豊かな草原が砂浜になってしまったが、狩猟と農耕が行われた。紀元前六五○○年頃、メソポタミア北部では、すでに羊や馬のような家畜の飼育と、ムギの栽培がはじまり、土器や織物がつくられた。


このような三つの適応は、それ自体夥しい人類の大移動をともなうものであり、その移動ルートは、そのまま後世の交通路線のもとになったと考えてよいであろう。

それとともに、人類の古代文明は、いま指摘したような二つまたは三つの中心ではぐくまれ、そこから地球上にひろく伝播したと考えられる。

(中略)


ただこうした人類の大移動や古代文明の伝播は、なお推測の範囲を出ない問題であり、まして移動や伝播のルートについては、くわしいことはまったく不明である。


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茶の湯や珈琲の日本伝来との接点はもとより、シルクロードとグレートジャーニーに関してはこれ以上深掘りしなくて良しと太鼓判を押されたような記述がみつかり(古い文献なのだが相当数の文献にあたった上で)、この時点で関連性を探ることをやめ茶の湯の歴史にうつるとした。


それで肝心の茶の湯の歴史であるが、題を拝借した[喫茶養生記]の著者である栄西によって茶の文化が日本に持ち込まれたとする通説が近年くつがえされているのを神津朝夫著[茶の湯の歴史](角川選書 2009)、橋本素子著[中世の喫茶文化](吉川弘文館 2018)でみることとなった。

そのほかにもこと茶の湯に関しては伝承や口承の世界で、多くの推論が錯綜した上の歴史と痛感する。


しかし、腰を据えてあきらめることなく整理していく。


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※1 漁撈(ぎょろう):事業として水産物をとること

※2 カンピーニ:フランス北半からベルギーにかけてみられる中石器時代の文化

※3 マグレモーゼ:北ヨーロッパにみられる中石器文化








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